とふぉふぉ・・・

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2010年 06月 09日

“あいでんてぃてぃ”

久しぶりに何か書いてみようと思います♪

 僕は、横文字 おりまぜて話すことには抵抗があるのですが、

  横文字の中には、それに代わる日本語が無くて、

   ほぼ日本語として、日本語の中に存在している 横文字 も多くあります。

 そんな 横文字 の中で、僕がずいぶんと長い間、

  いまいち意味を掴みかねていた横文字が有り、

   それは “アイデンティティ” という言葉です。


 ただその意味を知ろうと きちんと考えたことがこれまでありませんでした。


 そんな中、昨晩、人と電話で話しているときに、

   僕が、

     「学歴の話したがる人の気持ちが全く分からない訳
              じゃないけど、あんまり好きじゃないなぁ・・・」

   って話したとき、相手から

     「別にいいんじゃない。学歴も一つのアイデンティティなんだから。」

    という言葉返って来ました。


  この言葉を聞いた瞬間に、すごく大きな違和感を覚えました。

   感覚として、 学歴 は アイデンティティ ではないということが明確になった瞬間でした。

    でもきちんとそれを説明する言葉がそのときとっさには出てきませんでした。



  そこでひとまず、 アイデンティティ という言葉を

   ネット辞書で調べてみました。

    『 アイデンティティ = 同一性 』

    ということでした。

   すご~く、端的に言ってしまえば、 

         アイデンティティというのは、   「 私は、私だ。 」 と言い切れる

           絶対的な自己を表すのだと言えると思います。

     アイデンティティ という言葉にとって、 

        この 『絶対的な自己』 が不可欠な要素なのだと思います。

     なので、当たり前ですが、

      人より容姿が優れているとか、 人より勉強が得意だとかといった、

          『相対的な自己』 はアイデンティティとは相反するものだと言えると思います。

 

    先に書いた、僕が違和感を感じた、

     「学歴も一つのアイデンティティなんだから」 という言葉に戻ると、

     学歴を語る人は、その時、暗に何を意図しているのかということが重要です。

      その意図は、多くの場合、

       自分の能力が他の多くの人より優れているということを知ってもらいたい

        ということです。

          完全に、相対的に見た自分についての話 です。


      でもこういった意図を前面に出して、話すことは憚られるので、

       学歴は、あたかもアイデンティティの一つのようにして
 
                     語ってしまわれているということだと思います。

      学歴に自信のある人が、学歴の話をしたくなってしまったり、

        学歴話になると心を、こちょこちょっとくすぐられてしまうのは、よく分かります。

       でもその心の揺らぎは、間違いなく、優越感を感じたいという甘え です。

       この甘えを持つことが悪いわけではありません。

        学歴に自信のある人の多くにとって、

          この 甘え から完全に開放されることは非常に困難なことです。

        ただこの 甘え を感じることを戒める気持ちを持つ努力をしなければ、

          アイデンティティ、つまりは 絶対的な自己 を発見することは

                           できないのではないかと僕は考えています。


 久々に考えたことを書いてみました(^^

   やっぱり書くのは楽しいなぁって感じました♪
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by oriotia | 2010-06-09 22:12
2010年 01月 28日

幸せになるために必要なこと

先週末、祖母にプレゼントを渡すために帰省してきました♪

 プレゼントは、デジタルフォトフレーム!
                 しかも 15 インチ!
                   ちょうど今、皆さんの目の前にあるPCスクリーンくらいの大きさ♪

  昔からのたくさんの写真を入れてプレゼントしたのですが、

   祖母はすごく喜んでくれました(^^

    フォトフレームも気に入ってくれたのですが、

     プレゼントを渡すために帰ってきたということを何よりうれしく思ってくれたようです。

     最近少し涙もろくなった祖母は、涙ぽろぽろでした。




年配の人ほどそうかもしれませんが、祖母は多くのことに深く感謝します。

  そんなときの祖母の顔を見ていると、

    「何かに心から感謝したとき、人は幸せになれるんやなぁ」 って感じます。

   どれだけたくさんの愛情を注がれたかということよりむしろ、

     どれだけ深く感謝することができるかということが大切なのだと感じます。


  なかにはたくさんの愛情を注がれていても、

   不満ばかりが募ったり、寂しくてより多くの愛情を求めるばかりで、

      満たされないという人もいます。


  「感謝」 って 愛情を受ける器 なんだと思います。

     だから 深く感謝できる人は、 大きな “器” を持っているから、

      注がれた愛情をきちんと受け止めることが出来て、

     感謝する習慣の薄い人は、いくら愛情を注がれても、

      それをきちんと受け止めることができていないのだと思います。


   そして 感謝 って正のスパイラルをもっていて、

    器で受けた愛情を、さらに誰かに注ぎ返すことで、

      自分の 愛情を受け止める器はますます大きくなっていて、

        さらに深く感謝し、幸せを知ることができるようになります。

     それは 誰かに愛情を注ぐことで、

       愛情を注いでいるときの自分の心持から、

       「人が愛情を注ぐときは、こんな温かい心でその人に接しているんだ」

        と知り、

        そして、自分に愛情を注いでくれている人の気持ちを、

                 より深く知ることができるからだと思います。


  だから幸せに、そして豊かな人生を送るためには、

   “感謝” という愛情を受け止める器 がなくてはならないと考えています。



 この “器” をきちんと築くためには、

  他の誰かに愛情を注ぐという経験がすごく大切だと思います。

   愛情を注ぐということがどういうことか、心で分かっていれば、

    だれかに愛情を注がれたときに、その “器” が自ずとつくられてゆきます。


 祖父が亡くなり、祖母の一人暮らしが始まりもう、8年が過ぎました。

  その間、携帯で毎日連絡するようになりました。

    このやり取りが如何に、祖母、僕のお互いを豊かにしてくれているかは、

     測り知れないほどだと思います♪

↓はデジカメを使う祖母♪ ピントぜんぜんあってません(^^;
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by oriotia | 2010-01-28 23:03
2009年 09月 18日

見かた

僕自身の 「見かた」 、とりわけ「人の見かた」は、

 すごく肯定的だと思います。

  もっと言うと、「違い」 を人に見出したとき、ほとんど全ての場合、

   僕にはそれが 「魅力」 に感じられます。

 そのために、僕が幼い頃、母が僕に

  「あんたのええところは、人を褒めて、悪いことを言わないところや。」

   って言ってくれたのだと思っています。

 そんな、僕の 「人の見かた」 を、なぜそういう風になったか、ちょっと考えてみました。

  で、 行き着いた先は、やっぱり、「祖父」 でした♪


 祖父は、人にも自分にも厳しい人でしたが、

       陰口や後ろ向きなことは絶対に口にしませんでした。


   「 人は年を重ねることで、老いるのではなく、

       人は夢と希望を失ったとき、老いるのである。」


      と書かれた色紙を、自分の書斎に飾っていました。

   祖父は、いつも前向きな心で、物事を捉えていました。


そんな祖父の言葉で僕が最もよく覚えているものがあります。


   僕が小学校1,2年の頃だったと思います。

    当時流行っていた 『ファミコン』 を祖父の家にもってゆき、

     弟と一緒にそのファミコンで遊んでいました。

    父や母にとって、ファミコンは悪いものであり、

     僕もファミコンをするということに、いつもどこかで罪悪感を感じていました。

   でも祖父が口にしたことは、当時の僕にとってすごく印象的なものでした。

   ゲームをしている弟と僕を見て、

       「今の技術は大したもんや。

         こういうコンピュータゲームも、いくらかは、やっとかないかん。

         将来、こういうもん(ゲームのコントローラー)で、

          ロボットなり、機械なりを動かすのが当たり前になる時代がくるかもしれん。」


    この発言を聞いたとき、はっきりと僕は、

        「おじいちゃんは、他の大人とは違う。」って感じました。

  僕は正直に言うと、小さい頃から、大人のものを見る目に大きな疑問をもっていました。

    子どもを前にしたとき、失礼な振る舞いをとったり、

     不誠実な考え方を押し付けたりする大人は少なくありません。

   そんな様子を目の当たりにする度に、当時の僕は

         「大人ってなんでこんな変なこと言うんやろ?するんやろ?」という疑問を持ちました。

   でも「大人は子どもより偉い」と信じていた面もあったので、

           「僕に大人の“偉さ”が分からないのは、

             あるとき人は突然、“子ども”から“大人”に変化して、

               考え方が全然別物に変わってしまうからなんかも!?」

     って本気で思っていました(^^;

    そんな僕にとって、誰に対しても常に誠実な根拠をもって

      言葉を発する祖父が、異質に映り、深く尊敬するようになりました。

  そんなものの見かたを、やっぱり僕は祖父に習っているのだと思います♪

   よりよい方向に、ものを捉えようとした場合、自ずと肯定的になることが多いのだと思います。

    そのような「人の見かた」が、上に書いたような、

    僕についての母の言葉につながっているのではないかと思います。


   そしてだからこそ、子どもと接するときは、

    誠実に物事を考えて、誠実な言葉を伝える必要があると思います。

     その「誠実さ」が子ども達の成長する方向に大きく影響すると思うからです。

    「邪魔」という言葉があります。

       話し言葉で使うと、かなりきつい言葉で、相手を見下していなければあまり発しません。

      でも、 子ども達に、 「邪魔!」って言ってしまう大人はかなり多いと思います。

       どんな関係であれ、「言ってはいけない言葉」 は 「言ってはいけない言葉」 です。

      無意識に使っている言葉が、子ども達の心を、

         大人も子ども達自身も気づかないまま、

            えぐっているということに敏感になる必要があると思います。

     お父さん、お母さんが、物事を誠実に優しく見ていたなら、

      子ども達はきっと、誠実で優しい目をもった人になってくれると思います。
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by oriotia | 2009-09-18 01:02
2009年 06月 25日

魅力としての“腕力”

前々回の分で、

   「もう少しきちんとかけばよかったなぁ、
                  気持ちを害した人もいるだろうなぁ。」

   って思っているところがあり、そこのところの補足(?)をちょっとだけ書いてみます。

その分で、

   ----------------------------------------------------------------------

        悪ぶっていたり、暴力的な男性は案外よくもてる

   ----------------------------------------------------------------------

 って書きました。
  この部分をもう少し丁寧に書くと、

   ----------------------------------------------------------------------

        男性も女性も、
           悪ぶっていたり、暴力的な男性に惹かれることが
              本人が意識している“好み”とは独立して、案外多い

   ----------------------------------------------------------------------

   となり、こちらの方が僕の思っていることに近いんです。

 猿などの動物の群れでは、このような性格がよくわかるように思います。
   腕力の強い者が性別関係なく、その群れのものをよくも悪くもひきつけます。

    腕力が強いと認識されるには、
     言葉が露骨になってしまいますが、暴力を発揮する場が必要です。

  もちろん人の理性や社会は、他の動物よりも複雑に築き上げられているので、
    “腕力がある” ということが直接、人に対する好みにまで達するかは別ですが、

   本能的に “腕力がある” ということに引き付けられるというのは、
     他の動物であれ、人であれ、変わりはないと思っています。


 このことは、僕は実体験でも感じています。

  ただ、僕は、暴力に対して嫌悪感の強い方だと思います。

   僕の育った辺りは、“暴力” に触れる機会の多いところだったので、
    僕は小さい頃から、
      「暴力的な人にペコペコし、非暴力的な人に横柄になるということは絶対にしない」
     と決めて生活してきました。

   これはある種の、僕の “好み” です。

   そんな“好み”であっても、暴力的な人に引かれる気持ちが多少ありました。
     これは動物的な感受性みたいなもんだろうか・・・って思っています。

  もう少し具体的には、味方として暴力的な人が傍らにいると、
    特有の 安心感 や 頼もしさ を感じました。

 そのような経験も有り、

  僕は、男性も女性も、人は “暴力的な人” に惹かれる要素を持っていると考えています。

 なので、悪ぶっている人たちが、モテル ということに、
   「なんだかなぁ」って思う部分もあるけど、 妙に納得できてしまったりもします。


  人の 「好み」 って、その発生の根本は、他の動物たちとも変わりないのだと思いますが、
   人が持つ膨大な理性(←変な言葉かも・・・)で、様々に変化し、
      多様な、「好み」 が生まれているのだと思います。

    そこが それぞれの人 のおもしろいところだなぁって思います。
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by oriotia | 2009-06-25 00:48
2009年 06月 17日

“顔”

何度も書いていますが、僕は週に一度は 『奈々江』 に通ってます♪

 そこでは僕はもっぱら聞き役です。

 知った顔の常連さんといつも一緒に飲むので、

  以前聞いた話を聞くことも度々あります。

でも、全然それが苦痛じゃないんです!

 自分でも不思議なくらい、以前聞いた話でも、気持ちよく聞けます。

   その理由は、うすうす気づいていたんですが、

  司馬遼太郎さんの全講演の1巻を読んでいるとき、

   「 そうか!!! 」 って思った瞬間があったんです!

  そのとき読んだ内容はこんな感じでした。

  -----------------------------------------------------------------------
   人は40歳を過ぎれば、自分の顔に責任をもたねばらない。
     なぜならそれくらいの歳になれば、
      その人がこれまでどう生きてきたかが、顔に現れるからだ。
      (ここまではリンカーン大統領の言葉)

   ○○さん(司馬さんの先輩)の顔には、○○さんのこれまで貫いてきた生き方が現れている。
     それは、荒波が打ちつけ、長い年月をかけて、生み出した岩肌、
   自然によって生み出された造形に似ている。
  -----------------------------------------------------------------------

  このような内容を読んだとき、奈々江さんや旦那さん、常連さんたちに

   僕が魅了される一番の理由が、これだ!って確信しました♪

  奈々江さんたちの “顔” から、

   色々なことがとめどなく伝わってきて、僕を飽きさせることがないんです(^^

    その伝わってくるものは、言葉よりも遥かに説得力があります。

 特に僕は、奈々江さん と ご主人の 顔 が好きです。

   すごくまっとうに、そして強く清らかな意志をもって

        人生を歩んでこられたことが伝わってくるんです。

  若い人にはどうしてももつことができない、年配の方の魅力だなぁって思います。

    でも若い時代にどうあるかって、

     将来の自分の“顔”に大きく影響するんでしょうねー(--)
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by oriotia | 2009-06-17 22:06
2009年 06月 09日

矛先

「矛先を変える」って言葉は、けっこうよく使われる言葉だと思います。

 でも “矛先” って変えても、まずいいことってないように思います。

   その理由は、矛先を変える理由って、ほぼ全て、自分を守るためだからです。

  矛先を変えることで、相手に言い勝とうとしたり、、、

                   強く当たりやすい人に対しストレスを発散したり、、、

    どの場合も、自分を優位な立場に置こうとするということだと思います。

  人と人との交わりにおいて、相手よりも優位な立場に立とうとすることは、

     人間関係を築き、互いに人間性を広げてゆこうとする場合、益はないんじゃないでしょうか(--

 また矛先を変えるということは、

        その人は、なりふり構わず何かを守ろうとしているということだと思います。

     ただ矛先を変えた時点で、主題がズレてしまっているので、

                 さらに応酬するということは、全く無意味です。

        残るのは、人間関係の溝にしかならない、勝ち負け。。。

こんな風に僕は考えていて、矛先を変えていると感じたら、議論はしないようにしています。

   ただ今日は仕事の話の中で、矛先が変わっていると感じていたのに、

           ある言葉を浴びせられた直後、頭に血が上るのを感じました。

      10秒近く、その状態が続いたと思います。

    その彼の真意はよく分かっていて、

     そんなことを言いたかったわけではないってこともよくわかっているのに、

        頭に血が上りました。

      真意など関係なく、その言葉が僕の頭に血を上らせる記号のような言葉だったのだと思います。

   またその言葉は、僕がこだわっている部分、

             優越感や劣等感を感じている部分に対して鋭利な言葉だったのだと思います。

     僕の弱さが存在してるのが、その部分だったとも言えるかもしれません。

       言葉を噛み砕く前に、感情が立ってしまう・・・ ちょっと情けないなぁ(--;

   心が揺れる瞬間って、自分のことがよく分かる瞬間だなぁって思います。
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by oriotia | 2009-06-09 00:11
2009年 05月 25日

「核兵器」 と 「平和」

ついさっき、ヤフーニュースで、
   「また北朝鮮が核実験を行った」 という記事を読みました。
  メディアの立場としては、 
     「なんということだ! 信じられない!!!」
    と報道するしかないのかもしれませんが、予想通りの展開だと思います。

北朝鮮の政府は、すごくうまく “狂気” を演じているというのが率直な感想です。
  この “狂気” が北朝鮮現政府の唯一の生命線で、
    これを今後も維持するために、「核実験」の実施は不可避です。
   実験実施の公表も、“狂気” または “脅威” のアピールのためだと思います。
 なので残念なことですが、「やっぱり・・・」というのが正直な感想でした。

何年か前までは、アメリカや中国といった大国の前にとって、
  北朝鮮という国は、 「棒切れを振り回してるやんちゃくれ」
                   っといった、とるに足らない存在であったと思います。
 しかし非常にうまく荒波の中を歩み、
  気づけば、 「最新型の銃をもった、狂気染みた青年」
                  に育ってしまったと言えるかもしれません。


核兵器を保有した今、北朝鮮という国は、
    大国にとって、ある意味日本よりも遥かに、「無視できない国」 です。

ただここで一つ忘れてはいけないことは、
    北朝鮮が “狂気” であるならば、他の大国も “狂気” と大きな違いはないということです。

今、世界を見渡してみて、発言力のある国を見回してみると、、、

 アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス

これらは全て核兵器保有を公言している国です。

現在、核兵器の保有は、世界への発言力に直結します。
   もっと言えば、現在、核兵器の保有なしに、
        発言力を有することは困難だと思います。
どうして今、アメリカ、ロシアに対して他の国が従順なのか、、、
  それは、核兵器の脅威がその背中に、ちらちらと顔をのぞかせるからです。
だから、アメリカ や ロシア のあり方と、
  北朝鮮の目指すあり方に大差はなく、、、基本的には同じです。。。


     今、この世界は、「世界大戦が行われていない」 という意味で平和です。


「平和」 とは本来、他の人の幸せを自分の幸せと感じ、
  その結果、広い平穏が生まれた状態を表すものだと思います。

しかし、現在の 「平和」 はこれとは大きく異なります。
  現在の 「平和」 が一番近い単語は、「均衡」 ではないでしょうか。

 核兵器の脅威を軸とした、三すくみの 「均衡」 ・・・
   悲しいことですが、これが現在の平穏をもたらしたと感じずにはいれません。。。

 これからも当分は、「核兵器」 と 「平和」 の切り離せない関係は続くと思います。

ヤフーニュースを見て、ふと、かなり悲観的なことを書いてしまいました・・・

 「現在の平和には、こんな一面もある」 ということを書いてみただけです。

ただ、やはり新しい方向が見出されて欲しいと思います。
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by oriotia | 2009-05-25 23:00
2009年 05月 19日

“心” の 壁 と 壁の距離・高さ

僕は割りと小さい頃から、“心” に興味がありました(--

 面白いものだから、気持ちを引かれたというよりも、
      紛れもない自分の持ちものなのに、分からないことがたくさんあって、
   不思議すぎる存在が、“心” でした。

日々、妄想していた僕があるとき思ったことは、

 「 “心” には “2つの壁” があって、
         心の真中から壁までの距離と、二つの壁高さは人によって違う 」

 ってことでした。

絵で描くと、こんな感じです。

 心     |  |                        |  |        
 の     |壁|                        |壁|    → 心の外より部分
 真中   |  |                        |  |        


この“壁”は、人が色んな出来事に遭遇しながらも
    生きてゆくために必要な “心の構造” なのだと、僕は考えていて、
  この壁を積み上げるためのブロックの元は、
    “自尊心” や “優越、劣等感” 、“強さ、弱さ” 色々な複雑な感情だと思います。

これを思った当時の僕は、自分のことを、
  「外側の壁は、かなり低いけど、
           内側の壁は心の真中近くにあって、しかもそれがかなり高い」
 って感じてました。

 そしてそのとき、僕が思ったことは、
    「二つの壁は誰だってもってるんやろけど、内側の壁が高すぎるのはまずいなぁ・・・」 
  もっと言うと、「プライドが高すぎて、人の目ばかり気にして、本当の自分を見失ってる」 でした。。。
 
 高すぎる壁は、感情をせき止め、
    せき止められた感情はその中でとぐろを巻いて、嫌なものを生み出してしまうということも感じてました。


それから、“高すぎる内側の壁” を少しずつ削り落としていけるように、いくらか努めてきました!

   でも 「三つ子の魂百まで」 とはよく言ったもので、なかなかに手ごわいです・・・(--;

  今でも自分のつまらない自尊心に嫌気が差すときがたびたびあります。

ただ一つ言えることは、この壁を削ってくれるのは、人との交わりだということです。

僕は何度か、壁を削ってもらえた瞬間があったと思っているんですが、
 それはどれも、人と正直に向き合って、その人が真直ぐな気持ちを返してくれたときでした。

 心の成長に、人と向き合うことが最も重要なのでは!?って思ってます。


本当は、「竜馬がゆく」 を読んで思ったことに、
  「心の二つの壁」 の話をつなげようと思ったんですが、
                    全然違う話になってしまいましたーーー(^^;
 おまけに僕の感覚の話すぎて、分かりにくい・・・(--#
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by oriotia | 2009-05-19 21:20
2009年 05月 03日

“ 点数 ”

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“点数”ってすごく人を夢中にさせるものだと思います。
興味をもたないようにしようとしても、なかなか開放されない・・・
“点数” もっといえば “数字” ってあまりにも 「確か」 そうで、
それを突きつけられちゃうと、「そうか」って思わざるを得ないって部分があります。

僕は小学生の頃、テストでいい点をとると、
褒めてもらえるのがうれしくて、“点数” に夢中になりました♪
100点なんかとっちゃうと、
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、おっちゃん、おばちゃん、、、
みんなが 「かしこいなぁ(^^)」 って褒めてくれちゃいます♪

初めは、単にそれがうれしかったんです(^^
でも数年間たち、一つの疑問を抱くようになりました。

「かしこい、かしこい言うてくれるけど、別に何も特別なことできへんなぁ」 って。

「“点数”の表す賢さ」 と 「実際の賢さ」 のギャップに、???でした。


僕は “点数” という数字は、時に不誠実なものであると思っています。

ここからはちょっと極論です(^^;

残念なことですが、“国家” という大きな統一体を作るためには、
大きなピラミッドを、無理矢理にでも作るしかなかった・・・
そこで重要になるのは “明確な順位” です。 例え、それが無意味でも。。。

でも人と人の間に、“明確な順位” をつけるほどの違いなんてめったにありません。
だから “小さな違い” を搾り出して、
それを “大きな差” として表現するしかなかった・・・
そしてその一つの手段が、「テストによる点数付け」 だったのだと思います。

算数のテストがあれば、 100点をとる子もいれば、20点しかとれない子もいます。
「100点」 は 「20点」 よりもずっとすごいと思ってしまいます。
子どもは、心が真直ぐだから、強くそう思ってしまいます。
でもこれは錯覚に近いです。

テストの 「100点」 と 「20点」 の差は、本当は

 「100000100点」 と 「100000020点」 の差です。 
つまりほぼ全ての人が、100000000点分の素質をもっていて、
その上でのわずかな差を見ているということだと僕は考えています。   ←追記しました~


大したことのない差です。
生きてゆく上で、人として魅力的であるために、
また賢くあるために取るに足らない差です。


テストで「100点」とるために、頑張ることは悪いことじゃありません。良いことです!
ただ子ども達には、その数字のもつ意味がそこまで確固たるものでないことを、
おぼろげながらも感じていて欲しいと願います。

学校でも、家庭でもこのことに、子ども達が気づくことができるようにしてあげて欲しいです。
そんなに難しいことではないと思います。

 「人は、点数なんかを越えて、魅力的である」という当たり前のことを気づかせてあげるだけでいい。

 「偉人伝」ばかりを読まなくていい。

もしかしたら、大人よりも子供の方がそのことをよく知っているのかもしれません。
だとしたら、そのことを忘れさせないようにしてあげて欲しいです。

それができれば、経済はゆらぐけれど、大切な部分は揺らがない、
そんな社会ができるんじゃないのかなぁって思います♪

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by oriotia | 2009-05-03 21:26
2009年 04月 16日

方言

僕は自分の言葉を大切にしてる方なんかなぁって思います。

僕の地元のある和歌山県では、
和歌山出身であることを恥ずかしがる若い人が多く、
例えばラルカンシェルのハイドさんも和歌山出身ですが、
ずい分と長い間大阪出身と言ってました。

そんな訳で、上京したり、別の地域に移り住んだ地元の友達
の多くが標準語になってます。

僕が大学受験の際に、一緒に上京した友人は、
新幹線で東京駅に降りて、タクシーに乗った途端、標準語になりました(^^;
その友人も東京の大学に通い始めたのですが、
彼の周辺では、「和歌山って標準語なんだ。」って誤解する人、続出 。笑

僕は、大学入学で東京に越してきた9年前から、
今まで関東住まいですが、
和歌山にいた頃から、言葉に大きな変化はありません。

たまに 「関西弁にこだわってるねぇ。」って言われることもありますが、
そういう訳でもなくて、、、

自分が一番、気持ちをのせることができる言葉を選ぶと、
自然と地元の言葉が出るんです(^^@

それに “地元の言葉” と一口に言っても、同じ地域でも言葉は違います。
それぞれの家族によって、言い回しや、間や、イントネーションは違います。

だから僕は自分の言葉を観察していると、
「これは、おばあちゃんの使ってる語尾やな。」 とか
「これはうちのお父さんも使ってる、言い方やわ。」 とか気づきます♪

昔から使っている言葉は、その人の成り立ちを含んでます。


だから僕は、簡単に地元の言葉を捨ててしまう人は、
実は大きなものを失っていると思ってます。

「言葉なんて、人の表層でしかなく、本質には影響がない。」
って考える人もいるかもしれません。

でも、以前、 『 一人称が “ 僕 ” 』 でも書きましたが、
使う言葉を変えると、びっくりするくらい性格って変わってしまうと思います。

若い人たちの言葉が乱れていると嘆いているのを、
テレビなどで見かけることがあります。

でも別に乱れている言葉と、乱れていない言葉という点よりも、
雑誌などが、勝手に作った、深みのない “今風の言葉” に振りまわれ、
言葉をひょいひょい変えていると、
“自分” がどこかに行ってしまう・・・ということが心配な部分なんだと思います。

方言でも、標準語でも、自分の言葉って大切にしたほうがいいなぁって思います。

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by oriotia | 2009-04-16 06:13